2013年2月24日日曜日

想像しよう

大事だなと思うことが4つあります。

「経験」、「想像」、「インプット」、「アウトプット」の4つ。

ここでの経験は体験に近く、何処かに行った、身体を動かしてなにかをした、大自然的なものを見た、感じたなど。

インプットはテレビやPCから情報を得た、映画をみた、本を読んだ、ゲームをしたなど。

想像は経験やインプットから何かを考えること。

アウトプットは他の3つを書いた、話したなど。

この4つのバランスが良いのが理想。

そんなことは当然だと思うかもだけど、なかなかそうはできてない。

多くの人が、想像が抜けている。

例えば、「旅行行きましたー。楽しかったですー」とTwitterやブログで書いものがあるとします。

この文章に想像はあった?

いや、Twitterってそういうものでしょ?っていう意見もあるでしょう。

そうですねと思うところもあるし、もっと面白い使い方をしている人もいる。

さっきの文章になくても、想像したことを別のところで、アウトプットしている人も、もちろんいる。

でも、想像が抜けている人は多いし、想像なくてもある程度楽しくやっていける世の中なんだなー。

そこが、僕は残念に思う。もっと多くの人が想像し、そのことを話したり、書いたりすれば僕は面白い。

とういことで、落ちもなく、面白いかどうかは分かりませんが、僕の最近の想像をアウトプットしよう。


雨音がずっと聴けるアプリが800円。

たぶん、高いと思う人のほうが多いんじゃないかな。でもそのアプリを即決で購入した僕。雨好きだから仕方がない。

そんな経験から想像した。


「君があの殺人が起きた時、何をしていました」

「僕は雨音を聴いていました」

「あー、あの時間は、ちょうどゲリラ豪雨が降ってたっけな。防音のあの部屋では聞こえないか」

その後

「君は嘘はついてなかった。私が勘違いしていた。ずっと雨音が聴けるアプリか、そんなのをずっと聞く人もいるんだな」

「ゲリラ豪雨・・・、降るのを知っていれば、あんなことするより生の音を聞いていたのに」




雨遊び


ある坂道の中腹ぐらい、道の端の黄色い八角形は、周りの景色が薄暗いのも手伝い一際目立つ。


今日は雨。


道端に、お尻が地面に着かないように気をつけながら、少年が傘をさしてしゃがんでいる。

傘をさすというより、傘の中に入っているといった感じだ。

少年がしゃがんでいる場所は排水溝の近くで、黒っぽい砂が集まっている。

少年はその砂を使い、ダムのようなものを造り、水の流れを止める。

そのようなものでは、無限に流れてくる雨水の動きを止めるのは数秒で、すぐに何もなかったかのように雨水は流れていく。

すると少年は、また砂を集め、ダムのようなものを造る。

雨が傘に当たる、不規則な雨音。

車が、水しぶきをあげながら、横を通る音。

そういった音があるのに、静かに感じるこの時。

そして、終わりのない遊び。

少年は、その全てが好き。

雨が好きな少年。


ローカルルールから学ぶ


子供のころ何をして遊びましたか?

僕は印象に残っている遊びは「ドロケイ」でした。

これを見て「ケイドロ」でしょ?って思った人もいると思います。

そう、だいたい似たような遊びなんだけど、名前やルールが少し違ったりするんです。つまり、ローカルルールがたくさんある。

これはすべての遊びにいえることだと思う。

じゃ、なぜそういったことになるんでしょう。

僕が思う理由は「子供」が「遊び」をしたから、じゃないでしょうか。

子供のころは想像力、発想力が豊かだったと思いませんか。基本となるルールがあったとしても、遊んでる途中にルールを変えていく。自分たちがより楽しむために。

思い起こせばそんな経験がひとつぐらいあるんじゃないでしょうか。

今大人になった私達は、子供のころのように遊んでいますか?

もちろん、人が皆同じことをしているとは思いませんが、全国どこででもできること、誰としても同じこと、そんな遊びしかしてないんじゃないでしょうか。
 
社会やメディアが与えてくれる「遊び」は入りやすく、一定の楽しさを提供してくれる。

でも、それは遊んでいるんでしょうか、遊ばされているんでしょうか。


僕はこの間、友達と動画をとりました。一分ぐらいのとてもシュールな動画でしたが、作るのに何時間もかけて撮りました。
 
何も決めてなく、自分たちで一からすべて決めました。どういったものを撮るか議論したり、セリフ作ったり、小道具作ったり、カメラワーク考えたり、それはとても無意味で楽しい時間でした。

僕は思いました

久々に遊んだなーって。

こんな「子供」の「遊び」をいつまでも一緒にしてくれる友達に感謝です。


2013年2月23日土曜日

アーカのひ

年の半分をゆきで覆う、ある白い村の話。


「今年も盛大に燃えてるよ。この日だけは少し暖かくなるな」


この村には一本の神木があり、毎年同じ日に神木を炎で囲むという儀式がある。


この儀式のことをこの村では『アーカ』という。


娘は、何故毎年そんなことをするのか疑問に思っていた。


「ねぇ、チチ。何故毎年アーカする」


「あれは神木だろ。毎年あの木には神様が降りてきてくださる。でも、目印がないと場所が分からないだろ。だからアーカをやるんだ」


「ふーん」



「ねぇ、ハハ。何故毎年アーカする」


「あの神木の実を食べたことあるよね。あの神木は、この季節に一度暖めてやらないと実が成らない。だからアーカをやるんだよ」


「ふーん」



「ねぇ、アニ。何故毎年アーカする」


「ん?そんなこと知らないよ。オサにきいたら。オサが始めたって言ってたよ」


「ふーん」



「ねぇ、オサ。何故毎年アーカする」


「うん、そうだねー。うん、あいつが神木の下に眠っていてな。うん、あいつはこの土地の生まれにしては寒いのが苦手やった。うん、だから生まれた日ぐらいは、母の中にいたころのように温かくしてやろうと思ってな」


「ふーん、それが一番好き」



アーカのひ


いろんな人の想いをこめたひ


それはアーカのひ

下らない話

復卵:少し変な人
マスター:セブンの飼い主
セブン:太っちょミニチュアダックス♀


復卵 「大きい感動って説明しやすいけど、小さな感動、ハッとしたとか少し心が動いたなとかって言葉で説明しにくいことってあるじゃない」

マスター 「そう言われると、そうかもですねー」

セブン 「ご飯をいっぱいくれたときにしか感動しないから、説明できるワン」

復卵 「こないだ、車で信号待ちで止まっているときに、横の歩道を若い女の子が歩いてたんだけど、携帯を両手でもって両指で操作してたんですよ」

復卵 「早くメールを打つためにやってるとかじゃなく、普通に普段からやってますよって感じだったんだよね」

復卵 「それを見たときに、何故かハッとして、可愛いなと思ったんです。でもそれが言葉で上手く説明できなくて」

マスター 「単純に顔が可愛いかったんじゃ」

復卵 「いや、仕草とかシチュエーションとかだと思うんだよね。女の人に可愛いと思うときって何かある?」

セブン 「ガツガツ食べる女子は可愛いと思うワン」

マスター 「ベタですけど、ゲレンデにいる女の人は可愛いとか」

復卵 「そうそう。それって非日常感が可愛さを生むってことだよね」

復卵 「後さ、両手で何かを包むように持つって可愛いと思わない?」

マスター 「そうですか、ピンと来ないですね。何かあります?」

復卵 「リスとか小動物が両手でエサ持ってるのって可愛いじゃない」

マスター 「なるほど、確かに可愛いかも」

復卵 「より小さが強調されて、可愛く見えるんだよ。これを包み効果と呼ぼう」

セブン 「これからはエサ箱を両手で持って食べるワン」

マスター 「非日常感と包み効果が可愛さを生むんですねー。で、それが何でしたっけ?」

復卵 「携帯って両手で操作する?」

マスター 「いや、片手ですね。スマートフォンも操作するのは片手ですもんね」

復卵 「そう、少なくとも僕にとっては携帯を両手で持って操作するのは日常的じゃないね。さらに包むように持ってるんだから」

マスター 「おー、条件そろいましたね」

復卵 「フー、何とか説明できたねー。んっ、ちょっと待てよ。男なら誰でも納得できるであろう、あれも非日常感と包み効果の現れじゃない」

マスター 「なっ、なんでしょうか」

復卵 「朝に、女の人が男性の服を借りて、コーヒーカップを両手で持って飲む姿だよ、マスター」

マスター 「おー、やりましたね復卵さん。私達はついに鉱山を掘り当てました。つまり、そんな姿は都市伝説みたいなものだから、現実に落とし込んだ姿が、携帯を両手で持つってことですね」

セブン 「結局、犬でも食べない下らない話だったワン」